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从『007 ファースト・ライト』与『HITMAN』思考如何将「007」做成游戏【专栏】

『007 ファースト・ライト』と『HITMAN』から考える、「007」をゲームにするということ【コラム】

AI 导读

IO Interactive 的『007 ファースト・ライト』以约 20 小时流程让玩家与詹姆斯·邦德共同成长,偏重电影化「007」快感。同厂『HITMAN』无邦德登场,却将读局即兴起草作战的「思考快感」浓缩为单关任务,更易保住「007」体验核心。

正文

『007 ファースト・ライト』をクリアしたとき、一本の新作「007」映画を見終えたような満足感がありました。

世界を股にかけて高級車を駆り、機知に富んだ会話で相手を煙に巻く。さらに異国の敵地へ潜入し、銃撃戦を切り抜けながら、その背後に渦巻く巨大な陰謀へと迫っていく。「007」という稀代の映画シリーズを象徴する数々の記号が、惜しみなく詰め込まれています。それは間違いなく、自分の手で「007」映画を一本演じきる体験でした。

ところが、遊び終えたあとには少し奇妙な感覚が残りました。

これほど忠実に「007」の要素をゲームへ持ち込んだ作品なのに、プレイ中にもっとも「自分はいまジェームズ・ボンドになっている」と感じたのは、そうした映画おなじみの見せ場ではなかったからです。周囲を観察し、相手の隙を読んでその場を切り抜ける道を探す。銀幕のボンドを再現する演出よりも、そんな地味な時間のほうに、なぜか強く手応えがありました。

だとすれば、「007」をゲームにするとき、本当に注目すべきものは何なのでしょうか。

一本の映画としての構成なのか。それとも、任務の中でボンドが繰り返している行為そのものなのか。そう考えたとき、同じIO Interactiveが作った『HITMAN』という作品が思い出されます。なぜなら『HITMAN』には、ジェームズ・ボンドなど一度も登場しないにもかかわらず、 ときに『007 ファースト・ライト』以上に、「ボンドらしく振る舞っている」と感じる瞬間があるからです。

その理由を探っていくと、両作が「007」らしさをまったく異なる形でゲームへ落とし込んでいることが見えてきます。

メディアが変われば、物語のかたちも変わる

「007」シリーズの原作者イアン・フレミングは、主人公に「できるだけ単純で、退屈で、平凡に聞こえる名前」を求めました。「ジェームズ・ボンド」という名前には、彼を可能な限り匿名的な存在にする意図があったといいます。

もちろん、諜報員という職業にふさわしい名前であることも理由のひとつでしょう。ただフレミングにとって重要だったのは、ボンドを匿名的な存在にすることで、読者自身が自らを彼に投影できるようにすることでした。

高級な酒や食事を味わい、いい車を乗り回して、美女と出会う。そして、危険な任務へと身を投じる。小説版「007」の醍醐味は、そんなジェームズ・ボンドを外側から眺めることではなく、読者自身が彼へとシンクロし、その華やかで危険な世界へと入り込んでいくことにあったのです。

ところが、シリーズが映画になると、その関係は変化します。

Photo: Rob Mieremet / Nationaal Archief (CC BY-SA 3.0 NL) 

スクリーンに現れたボンドには、ショーン・コネリーという具体的な顔と肉体がありました。スーツの着こなしから酒の飲み方、女性への視線に至るまで。そこにはもはや、読者が自由に自分を重ねられる空白はありません。ジェームズ・ボンドは、自分自身を投影するための匿名的な男から、明確な容姿と振る舞いを持った「自分とは異なる、魅力的な男」へと変わったのです。

さらに興味深いのは、そのボンドを演じたショーン・コネリー自身の存在です。エディンバラの労働者階級に生まれ、牛乳配達をはじめとするさまざまな肉体労働を経験した彼は、ジェームズ・ボンドを演じたことで世界的なスターへと駆け上がっていきます。

つまり観客が憧れたのは、スクリーンの中のジェームズ・ボンドだけではありませんでした。コネリー自身がボンドになることで人生を大きく変えていくという現実の物語までが重なったことで、ボンドは次第に「自分もこうなりたい」と憧れる対象になっていったのです。

同じ「007」であっても、メディアが変われば、私たちとボンドとの関係は変わります。そしてその関係が変われば、当然、物語の届け方も変化するはず。では、ゲームになった「007」は、プレイヤーとジェームズ・ボンドのあいだに、どんな関係を作ろうとしたのでしょうか。『007 ファースト・ライト』が選んだ答えは、実に明快でした。

プレイヤーと共に成長するジェームズ・ボンド

本作で描かれるのは、すでに完成されたジェームズ・ボンドではありません。まだ荒削りな若者が訓練と実戦を重ね、私たちの知る「007」へと成長していくオリジンストーリーです。

この設定は、ゲームというメディアと非常によく噛み合っています。というのも、物語の冒頭で未熟なのはボンドだけではないからです。プレイヤーもまた、潜入の方法を知らず、銃撃戦にも慣れておらず、ガジェットをどう使えばいいのかも分からない。任務を重ねるなかで操作を覚え、状況を読んで即興で切り抜ける術を身につけていきます。

つまり、プレイヤーが『007 ファースト・ライト』を上手くなっていく過程そのものが、主人公がジェームズ・ボンドへと完成していく過程と重なっているのです。腕をあげることで映画が生んだ「憧れの他者としてのボンド」へ少しずつ近づいていく。ゲームならではの成長体験を結びつけた巧みな着地だと思います。

一方で、物語全体の構成は徹底して映画的でもあります。初めは候補生として過ごし、ある衝撃的な出来事をきっかけに実戦へと放り込まれ、やがて事件の全体像へ迫っていく。その筋運びは、いかにも「007」映画らしいものです。

中でも印象的だったのは、序盤の訓練シークエンス。複数の訓練を一本一本じっくり遊ばせるのではなく、映画のモンタージュのように場面を切り替えながら次々と体験させていく。カットを重ねるようにゲームプレイをつないでテンポを加速させ、そのまま成長過程を走らせていきます。

プレイヤーは自分で操作しているにもかかわらず、ゲームプレイそのものが映画の編集によって運ばれているように感じられたはずです。その感覚は、本作ならではの面白さといえるでしょう。その意味で『007 ファースト・ライト』は、「「007」映画をゲームとして遊ばせる」という難題に、かなり真正面から挑んだ作品でした。

さらに、本作の映画的な志向を最も象徴しているのが、タイトルシークエンス。「007」シリーズ最大の魅力は何かと聞かれれば、私は迷わずここを挙げます。各作品を象徴するモチーフと歌詞、そしてシリーズを通底する生と死、あるいは性と死のイメージ。それらが数分間の映像の中で折り重なり、これから始まる「007」の世界を暗示する。そこに魅力があります。

『007 ファースト・ライト』のタイトルシークエンスも見事なものでした。直前のカットシーンの爆発からシームレスに映像へと繋がり、ラナ・デル・レイの華やかでありながら退廃的な歌声とともに新しいジェームズ・ボンドの世界を示す。そしてトラックの終了と共に、そのまま再びカットシーンへ戻っていく美しい流れ。『スカイフォール』の影響を色濃く感じる部分はあるものの、新世代の「007」を告げる幕開けとしては申し分ありません。

20時間に希釈された「007」

ところが、20時間近くプレイしてエンディングを迎えたとき、不思議な感覚がありました。あれほど鮮烈だったはずのタイトルシークエンスが、振り返ってみるとずいぶん昔に見たもののように感じられたのです。

考えてみれば当然です。映画なら、タイトルシークエンスからエンディングまではおよそ2時間。あの映像によって作られた気分を保ったまま、クライマックスまで一気に走り抜けることができます。しかし『007 ファースト・ライト』では、その距離が20時間ほどもあります。

もちろん、ゲームと映画で上映時間を単純比較することに大きな意味はありません。ただ、ここで気になったのは時間そのものではありませんでした。

もしかすると、問題は一本の「007」映画という単位を、その構造ごとゲームへ拡大したことなのではないか。映画では2時間ほどに凝縮されていた「007」のリズムを、その構造ごと20時間へ広げれば、当然ながら一つ一つの「007」らしい瞬間の密度は下がっていきます。実際、特に後半は展開が間延びした印象が残りました。

では逆に、一本の「007」映画を拡大するのではなく、その中にある快楽をもっと小さな単位へ分解し、それぞれをゲームとして繰り返せるようにしたらどうなるのでしょうか。

その答えを、IO Interactiveは『007 ファースト・ライト』よりずっと前に持っていました。

『HITMAN』です。

言ってしまえば、『007 ファースト・ライト』とリブート版『HITMAN』の物語構造は、驚くほどよく似ています。

エージェントである主人公が訓練を経てプロフェッショナルとなり、世界各地で任務をこなしながら、自分自身の影とも言える存在と対峙する。そして、個別に見えていた事件の背後にある企みへとたどり着く。大まかに言えば、どちらも主人公が「007」あるいは「47」として完成していく物語です。しかし、その物語をどのような単位でゲームにするかは、大きく異なっています。

『007 ファースト・ライト』は、一つの巨大な物語を最初から最後まで走り抜けます。対して『HITMAN』は、全体を貫く大きな物語を持ちながらも、世界各地に存在する一つ一つの任務を、独立したドラマの一話のように区切っているのです。

注目すべきは、この区切り方。『HITMAN』は、異国の土地へ赴いた先で任務を与えられること、現地へ潜入し、その場の情報ととっさの判断で問題を解決すること。そうした「007」を構成する快楽をひとつのミッションの中へ凝縮しています。

つまり、映画では一本の物語の中で数度しか訪れない「007」らしい瞬間を、ひとつのミッションとして完結させ、それを次の土地でも、また次の土地でも繰り返す。その結果、『HITMAN』には一本の長大なスパイ映画を追い続けるのとは違う、短編のスパイドラマが次々と幕を開けていくようなリズムが生まれています。

ここで、各ミッション冒頭のブリーフィングにも触れておきます。標的の素性や過去、現在の状況、今回の任務が持つ意味。そうした情報をナレーションとスタイリッシュな映像によって短くまとめ上げるこのパートは、今では『HITMAN』を象徴する要素の一つです。

もちろん、「007」のタイトルシークエンスとは形式がまったく異なります。それでもその役割には、どこか似たものがあると思います。

映像と音楽によってプレイヤーの気分を切り替え、「これから新しい任務が始まる」という高揚を短い時間の中へ凝縮すること。『007 ファースト・ライト』では20時間の旅の中で一度だけ大きく鳴らされた「007が始まる」という号砲を、『HITMAN』ではミッションのたびに鳴らしているわけです。

実際の著名人をはじめ、魅力あふれるヴィランがミッションごとに多数いることも、「007」のドラマ版らしい。

ボンドを操作するのではなく、ボンドのように考える

誰に変装し、どこから侵入するのか。どのように情報を得て、標的へ近づくのか。映画の中でボンドが鮮やかに切り抜けていく状況を、『HITMAN』ではプレイヤー自身の判断で組み立てていきます。周囲を観察し、膨大な情報とガジェットを突き合わせ、自分なりの作戦を描く。『007 ファースト・ライト』にも同種の場面は要所にありますが、『HITMAN』はそれを遊びの中心に据えている点が決定的に違います。

つまり『HITMAN』では、ジェームズ・ボンドというキャラクターを操作することなく、ジェームズ・ボンドが映画の中で働かせている思考そのものをプレイヤー自身になぞらせている。そこにはボンドの顔も、声も、名前もありません。それでも「この状況をどう切り抜けるか」という判断だけは、奇妙なほどボンドの感覚に近い。

ここで、「007」の持つ魅力を二つに分けてみると見通しがよくなります。ひとつは、華やかなスペクタクルと魅力的な人物像がもたらす「映画的な快楽」。もうひとつは、状況を読み、即興でミッションを切り抜ける「思考の快楽」です。

『007 ファースト・ライト』がより強く追いかけたのは前者でした。憧れの他者としての映画のボンドを、演じられる形にした。言ってみれば、「007」映画そのものをプレイ可能なものへ変えた作品ともいえます。 対して『HITMAN』は後者の「007」の中にある思考の快楽を一つずつ取り出し、別のメディアへ翻訳した作品です。

興味深いのは、この思考の快楽が、小説の読書体験ともどこかで通じることです。小説の読者は、ボンドの内面と判断の道筋を内側から追う。もちろん読書は受動的で、決断そのものは著者に握られていますから、能動的に作戦を組むゲームと同じではありません。それでもスターの所作を眺めるより、フレミングの筆致に流れていた匿名的な当事者性に近い、とは言えるはずです。

奇妙な逆転というほかありません。ボンドの名を冠したのは『007 ファースト・ライト』なのに、フレミングがあえて平凡な名前を選んでまで残そうとした「当事者として世界へ入り込む」感触に近いのは、ボンドの一切登場しない『HITMAN』のほうと言えるのです。

映画を「プレイ可能」にすることと、「ゲーム」にすること

こうして二作品を並べてみると、同じIO Interactiveが非常に異なる二つの答えを作ったことが見えてきます。

もちろん、どちらが優れているという単純な話ではありません。何を捨て、何を取るかの選択です。ただ正直にいえば、「007」という体験の芯をどれだけ濃く保てたか。その一点で測るなら、私には『HITMAN』のほうに分があるように思えました。

そもそも『007 ファースト・ライト』が追い求めた映画的な「007」らしさ自体が、いま足元から変わりつつあることも要因です。かつてシリーズを彩ったボンドガールの描き方や、現実離れした荒唐無稽さは、現代の価値観のもとで少しずつ後退しています。ダニエル・クレイグ以降のボンドがまとう抑制はその表れでしょうし、新世代を名乗る『007 ファースト・ライト』も当然その延長にあります。

『HITMAN』が抽出したのは、たまたまゲーム向きだっただけでなく、「007」らしさのなかでも最も摩耗しにくい芯だったのかもしれません。

興味深いのは、『HITMAN』によって実質的な「007」のゲーム化を果たしていたIO Interactiveが、本物の「007」を託されたとき、あえて同じ道を選ばなかったこと。二作の違いそのものが、彼らが「映画をゲームへ翻訳するとはどういうことか」を問い続けてきた跡に見えてきます。

物語を別のメディアへ移すということは、その姿を保ったまま運ぶことではありません。その作品のどこに快楽が宿っているのかを見極め、それを新しいメディアのかたちへ置き換えること。ボンドを操作できるようにするだけで「007」のゲームになるわけではないのです。

『007 ファースト・ライト』は、ジェームズ・ボンドをプレイヤーに演じさせた。『HITMAN』は、プレイヤー自身にジェームズ・ボンドのように考えさせた。その違いの中にこそ、「007」をゲームにするという難題への、それぞれの答えが見えていくのです。

来源:GameSpark · gamespark.jp