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Game Watch· 石井聡·· 2 小时前AI 评分46

宫本茂获文化勋章:从马里奥诞生秘话到生成AI与游戏未来,回顾50年轨迹

宮本茂氏の文化勲章受章が決定。マリオ誕生秘話から生成AI、ゲームの未来まで50年の軌跡をたどる

AI 导读

任天堂代表董事研究员宫本茂于10月22日在京都任天堂本社记者会确认获文化勋章,继2019年文化功劳者后再获荣誉。他回顾1977年入社以来开发《Donkey Kong》《超级马里奥兄弟》《塞尔达传说》等作品的50年轨迹,并谈及Wii控制器设计与生成AI对游戏制作的影响。

正文

 任天堂の代表取締役フェロー、宮本茂氏による文化勲章受章に伴う記者会見が、10月22日に京都の任天堂本社で行われた。

 文化勲章は、日本の文化の発達に関し顕著な功績のある人物に対して授与される勲章。

 会場に現れた宮本氏は、照れくさそうに恐縮しながらも「名誉ある賞をいただくことになり、本当に光栄に思っています。いつもお話ししていることですが、私一人で作ってきたものではなく、大勢の人たちと一緒に作ってきたものなので代表していただくつもりです」と喜びを口にした。

 宮本氏は京都府園部町(現在の南丹市)の出身。1977年に金沢美術工芸大学工業デザイン専攻を卒業し、任天堂へ入社。『ドンキーコング』、『スーパーマリオブラザーズ』、『ゼルダの伝説』など、今日のビデオゲーム業界や任天堂の礎となるゲームを開発してきたゲーム界を代表するクリエイターだ。これまでも世界各国で数多くの賞を受賞しており、文化勲章は2019年の文化功労者選出に続く栄誉となる。

【ゼルダの伝説 時のオカリナ】

(C) Nintendo.

Nintendo Switch 2版は11月5日に発売される(1998年11月21日 NINTENDO 64)(C) Nintendo.

【「ゼルダの伝説 時のオカリナ」】

(C) Nintendo.

 宮本氏からの「僕が任天堂に入社したのが1977年で、その後すぐにゲームが流行り始めたので実は50年ではないかと。来年は51年ではないかということで、数えやすいように今日は50年としてお話しようと思います」という言葉もあり、質疑応答では宮本氏がこれまで歩んできた50年を振り返るような質問が多く寄せられた。

宮本氏が手掛けたゲームやゲーム機。任天堂の歴史そのもののラインナップだ

【宮本茂氏の代表的な開発商品】

(C) Nintendo.

――今回の受賞は社会におけるゲームの立ち位置が変化したことを象徴するような受賞だと思います。社会全体におけるゲームの立ち位置をどう捉えておられるか、今後ゲームがどのようなものになっていけばよいかを教えてください。

宮本氏: 子どもの頃には野球盤というゲームがあって、ダイヤモンドゲームとかロケットゲームとか百人一首とか、そういう任天堂と生活の関わり方がいいなと、昔から思っていました。

 ビデオゲームを作るようになって、リビングの中心にいつもゲーム機があって、そこにみんながいつもいるというのが任天堂らしいと思って、ゲームを遊ぶ人たちだけのために作るのではなく、そうではない人に興味を持ってもらうためにも作ろうと思ってきました。

 自分が27、28歳の頃にはまだ同年代にはそれほどゲームで遊ぶ人はいませんでしたが、だんだんとお父さんがゲームを遊んだ世代になり、おじいさんもゲームを遊んだ世代になって、親子三代がゲームを知っている。それを文化とみなしていただいたのはうれしいです。

 これからも新しいメディアに興味のない人にも使っていただける、リビングの中心にいつもあるものを作り続けていきたいと思っています。

【スーパーマリオカート】

(C) Nintendo.

ファミコン以来、お茶の間には常に任天堂のゲーム機があったという人は多いはず(1992年8月27日 スーパーファミコン)(C) Nintendo.

【「スーパーマリオカート」】

(C) Nintendo.

――今回の受賞につながった理由は何だと思いますか? これまでの過程で特に印象に残っている困難や転機についても教えてください。

宮本氏: ゲームキューブからWiiに移った時代が悩むことの多い時代でした。その時代には、ゲームをする人としない人の間に衝立があると感じていました。コントローラーが複雑で、初めて触る人には近寄りがたいものになっているのではないかと考え、初めて触る人のために考えたのがWiiコントローラーです。

【ピクミン】

(C) Nintendo.

「ピクミン」はニンテンドー ゲームキューブのゲームとして誕生した(2001年10月26日 ニンテンドー ゲームキューブ)(C) Nintendo.

【Wii Sports】

(C) Nintendo.

普段ゲームをしない人でもWiiリモコンで直感的に遊ぶことができた(2006年12月2日 Wii)(C) Nintendo.

【Wii Fit】

(C) Nintendo.

Wiiの大ヒット作品。当時、どこの家にもテレビ台の隙間にバランスWiiボードが置いてあった(2007年12月1日 Wii)(C) Nintendo.

 僕はインタラクティブというメディアが面白いと思っていたのですが、インタラクティブメディアで一番分かりやすいのがゲームなのです。自分が何かをすると相手が何かを返してくれる。そこで試行錯誤を繰り返しているうちに、楽しい時間が過ぎていけばよいと思っています。

 以前、工業デザインを手がけていたときにCADがあったのですが、あれは最高のおもちゃだと思っていました。きちんと使いこなすことはできませんでしたが、あれで試行錯誤をしていたら、気が付けば長い時間が経っている。これは僕の中ではゲームだと思っています。そういうものを作っていけたらいいなと、ずっと目指してきました。

 おそらくゲームほどインタラクティブを真剣に作っている人たちはいないと思っています。ゲームを作りながら、お客さんが分かりやすいか、思い通りに動かせるか、レスポンスはどうか、反応はどうか、どうすれば操作を間違えないか、人間科学の観点からどう設計すれば間違いを防げるか。

 普段ウェブで「はい」「いいえ」で答える質問があって、ほとんどの人が「はい」と答える質問なのにデフォルトが「いいえ」になっていたり。そうすると、そこで大半の人が間違ってしまう。ゲームを作っている人はそこをとても真剣に作るんです。私たちも社内にインタラクティブデザイン部門を作るぐらい、そこを真剣に作っています。

 そのノウハウはゲームが一番進んでいると思っています。今、モバイルでいろいろサービスがありますよね。お客さんがきちんと使えるかどうかを丁寧に作っている会社のものはきちんとできていますが、トップダウンでこういうものを作れという指示によってできあがったものは大抵使いにくい。ゲームに限らず、こういうインタラクティブな世界はまだまだ進化する可能性があるし、日本が作るものが最高だというチャンスが数多くあると思っています。

 僕は会社を辞める人にも、ゲーム業界を出てもこれまでやってきた仕事は大いに役に立つ、と伝えています。こういうことがきちんとできていけば、何年か後には、ゲーム業界だけではなく、コンピューターのインタラクティブな領域を含む文化的な業界として捉えていただけるようになったらうれしいなと思います。

【スーパーマリオ64】

(C) Nintendo.

スーパーマリオシリーズ初の3Dアクションゲーム(1996年6月23日 NINTENDO 64)(C) Nintendo.

――私自身を含めて、任天堂の作品とともに人生を歩んできた人たちが世界中にいると思います。そんな世界中の任天堂のファンの皆様に向けて、今後の展望などを含めたメッセージをいただけますか。

宮本氏: 映画を数年前から作るようになっています。昔は映画は作らないよと強がっていたのです。それは、映画を作るためにはお話を作ります。お話を作ると、このキャラクターはこういう性格です、家族にはこういう人がいますとさまざまな設定をしていくことになります。ただ、僕らはゲームを作るためにキャラクターを作ってきたので、次にどんなゲームを作るか分からないのに、さまざまな設定をしてしまうと不自由になると思っていたのです。ですので、ゲームのために作ったキャラクターなので、ゲームにしか使えませんと言ってきたのです。

 しかし、長年やっていると、任天堂のファンとおっしゃってくれる皆さんが、うちのキャラクターを結構愛してくれているんです。マリオとかカービィとか、いろんなキャラクターを作ってきましたし、ゲームを遊ばなくても、そういうキャラクターが大好きという理由でも任天堂のファンになってもらえると思うようになったんです。それで、作るなら自分たちで作ろうということで、映画の制作を始めました。

 それ以外にもテーマパークの展開を始めたりしています。ゲームだけではなく、ゲームから生まれてきた任天堂のキャラクターを、よりたくさんの人に見てもらえるような機会ができるということで、いろんなお付き合いができています。最近は、「Pikmin Bloom(ピクミン ブルーム)」が頑張っています。開発しているのは任天堂ではなくて、スコープリー・エクスプロア(Scopely Explore)のチームですが、モバイルでも任天堂のキャラクターを使っていろいろ一緒にやっています。

【Pikmin Bloom】

(C)Scopely Explore, Pikmin and Mii Characters / Artwork / Music (C) Nintendo.

Scopely Exploreが配信している位置情報を使用したモバイルゲーム。(2021年11月1日 スマートデバイス)。(C)Scopely Explore, Pikmin and Mii Characters / Artwork / Music (C) Nintendo.

――かつてゲームは、一時期社会問題として捉えられることがあったものの、最近は政府がアニメなどとともに、コンテンツ産業として基幹産業に位置づけられる存在になったのかなと思います。今後、文化勲章の受賞者として、日本のゲーム産業の発展に向けてどのような活動をしていきたいとお考えですか。

宮本氏: あまり具体的なイメージはありませんが、自分のやれることをこつこつ進めていけたらと思っています。さっき言ったように、ゲームが貢献できるのはやはりユーザーインターフェースだと思うのです。

 多分ゲームは、使う人に一番真摯に対応しているメディアではないかなと思います。こちらから何かを提供するというよりは、インタラクティブに使うことで何かが生まれる。使っているうちに楽しくなる。このセンスを持っているデザイナーやシステムエンジニア、インターフェースのデザインを丁寧にできる人が育ってきています。この、お客さんと接するところを丁寧にやってきたのが日本のゲーム産業の強みだと思っています。

 もう一つは人と同じことをしていると次第に競争になるので、人と違うことをする。そういう独自の姿勢で使う人にきちんと寄り添って真剣にものづくりをする人を一人でも増やしていけばいいかなと思います。

インタラクティブなメディアでの丁寧な顧客との向き合い方が日本のゲーム産業の強み

――故郷の園部、京都という土地について思いをお聞かせください。

宮本氏: 私は南丹市の園部町の出身です。京都に出るだけでも一大事というくらいの田舎です。大学は金沢に行き、デザインの仕事をしているから、デザイナーならイタリアに行かなくちゃだめだろうとか、ニューヨークに行けとか、いろんなことを言われながら京都で就職して、こつこつものを作っていました。

 多分30歳くらいになった時期あたりで、先端の街にいないとデザイナーは枯れると言われる中で、あまり気にせずものづくりを続けていました。

 30歳を過ぎたくらいから、日本よりも海外の売り上げの方が多くなってきたことに気が付いて、40歳くらいになると、どうしてそういうものが作れるのかと人から聞かれるようになりました。そのときに、ああ、京都にいて良かったなといろんな意味で思いました。何かと競争するのではなく、じっくりとものづくりができました。

 園部もそうで、やはり園部の自然のなかで育ったことが、自分がいろいろな判断をする中で、過去の体験は全部そこに反映してくるから、子どもの頃に自然の中でのびのびと育ったことが、自然と再現できているんだろうなと。それが多分世界中の人に通じているんだろうなと。

 国が違っても、子どもが物理的にものに刺激をうけたり、するところは通じていると感じるので、ああ、田舎で育ってよかったな、京都でずっと生きてよかったなと年齢を重ねるにつれて思うようになりました。園部のゲームの何をもとにこのゲームを作りましたというわけではなくて、園部で体に染みついたこと、山に登って滑って降りたことや、川に入って魚を釣ったりとか溺れかけたりとか、いろいろな体に染みついたものが自分のものづくりの原点になっているので、そういう意味では園部に育ててもらったなと思います。

【ゼルダの伝説】

(C) Nintendo.

冒険の背後には、宮本氏の幼い頃の体験が生きている(1986年2月21日 ファミリーコンピュータ ディスクシステム)(C) Nintendo.

【「ゼルダの伝説」】

(C) Nintendo.

――これからも任天堂の中でいろいろなクリエイターが育っていくと思いますが、宮本さんの考え方をどのように託していくのでしょうか。

宮本氏: 日々の仕事の中でやり取りをしていくことしかないので、こつこつとやっています。ただ任天堂も世界中で開発者だけでも全部含めると1万人くらいいるので、なかなか原点の「独創」のような精神を全体に行き渡らせるのが難しくなっています。だから、少しでも何かを、次のものを作るときに、そういう作る過程で「独創とは何なのか」というのを行き渡らせていきたいです。

 今もまた新しい人、僕が新しい人と思っている人も結構年寄りになって来たので、もう少し中堅で集まってそういうことを議論する場を作ろうということを少しずつ進めています。頑張ります。

――先ほどいつの間にか時間が経っているのがゲームということでしたが、今は生成AIがどんどん発展してきてゲームを作ることのハードルが下がってきています。一方で、人間がどこまで才能を発揮できるのかということが問われているように感じます。そういう生成AIを用いたゲームというものをどのようにお考えでしょうか。

宮本氏: ちょうど僕らの時代はコンピューターが発展してきて、それまではタイプライターでワードプロセッサーになって、どんどん道具が進化してきました。例えば、デザイナーってレタリングでポスターの文字をきれいに描くことを学校で習う。そういうことができるともうデザイナーと呼べたんですね。あるいは海外で流行しているデザインをなんとなく日本風にしてレイアウトしていればデザイナーと呼べた。

 ところが、コンピューターがどんどん進化して、技術が進化すると、レイアウトのセンスであるとか、そういう個人のデザイン能力が初めて表に出てきたのです。生成AIも、まさにそういう状況だと思います。僕らはものを作ることと作業をすることを分けています。何かを作ろうと思うと大きな構成をします。そして何かに向かって手を動かしていく。そこから先は作業なのです。空いている穴を埋めるとか、きれいに仕上げるとか。

 厄介なことに作業って楽しいんですよ。だから、ものを作るということには満足感があるではないですか。けれど、作業に満足してしまうことで、よいものができたと勘違いしてしまうのが怖いです。その意味ではAIが作業をしてくれるようになればなるほど、本当に重要なのは何なのかを考える機会になるので良いなあと。

 過去のデザインの中にも、コピー&ペーストだけでできたものもあったりします。けれどそういうデザインはやはり残らないです。そこに個人が何かをデザインするという意図がないと。個人の意図があって、その作業をコンピューターに手伝わせる構造になるので、どこまで進化しても、今後全てをAIがやってくれるようになるかもしれないですが、まだまだ我々がやれることは残っているなと思います。

――人とゲームの関わりがかなり大きく変わってきたと思います。かつてはリビングで子どもたちが遊ぶものだったのが、いまは老若男女を問わず、余暇としての遊びだけではなく健康であったり人とのコミュニケーションのためであったり、いろんな目的でゲームを遊ぶ方が増えています。今後、ゲームと人との関わり方がどう変化していくと思いますか。またその変化の中でどんなものを世の中に届けたいと思いますか?

宮本氏: ちょうどニンテンドーDSを開発していたときに、あれだけの機能のものをあの値段で提供できる。「任天堂のハードはすごい」と思ったのです。それで思いついたのが、これを学校の教材にしたらいいのではないかと。シャープさんと一緒に「ニンテンドーDS教室」というシステムを作りました。先生がPCを持っていて、PCとつながっているニンテンドーDSが各生徒のもとにあって、先生は子どもが今どんな答えを書いているのかすべて見られる。直接質問もできる。

 他にも、例えば美大の卒業展のようなものをやるときに、ニンテンドーDSを使って作品の前に行けば、自動的に音声と画像で作品の説明をしてくれる。それをブラウザ上でウェブ上で設計できるシステムを作って、それを提供する。それがどんどん進化してルーヴル美術館の対応システム(「ニンテンドー3DSガイド ルーヴル美術館」)になったのです。

【nintendogs】

2画面を活かしたワンちゃんとのふれあいゲーム(2005年4月21日 ニンテンドーDS)(C) Nintendo.

 それをやっている頃から、ゲーム機とは言っているけど世界で最も安いコンピューターではないかと思うようになりました。ニンテンドーDSでいろんなことをやりたくてたくさん試しました。だからその頃にはゲームを作ってはいるけれど、これをゲームと呼んでいいのかというものも作り始めていたのです。

 それがスマートフォンで一気に進みました。これは僕らにとっては悔しいことなのですが、世の中全体にとっては、メディアの進化として非常に大きかったと思います。インタラクティブにコンピューターを使うことをゲームと定義したら、もう今はほとんどのものがゲームではないかと思います。本当に境界線がなくなってきたと思います。今は高性能なものもアマチュアが制作できるようになりました。そうすると、その人が作ったものを1時間楽しんだら、どんな楽しみ方をしてもそれはゲームだと言えるようになれば、いろんな遊びが生まれてきます。

 今はゲームデザイナーでなくてもゲームが作れる。ゲームの定義を広くすればみんなゲームが作れる時代だと思います。そういう境界がなくなっていくのが理想だと思っていたので、いい時代になったと思います。

――そのうえでご自身が今後何を作ろうと思いますか?

宮本氏: 分からないです。今はかなり映画作りに夢中になっています。映画制作のプロの人たちとやっているわけですが、自分で作るとどのくらいのものが作れるかを試しています。それをやっている中で、ひょっとすると、またゲームを作りたくなるかもしれません。

 デジタルの進化でいろんな仕事が大掛かりになっていた一方で、好きにできるようになってきたところもあるので、意欲のある間はいろんなものを試したいと思います。特に「独創」ということで、任天堂で普通にやってきたことではないことをやって、社員を驚かせようかなと思っています。

――宮本さんにとってゲームとは何だと思いますか。

宮本氏: 僕は子どもの頃から自分が作ったものを誰かに見せて驚いてもらうのが楽しみだったのです。中学校の頃には漫画家になりたくて、その頃は漫画を描いて人に見せるのが楽しかった。親が勝手に自分の部屋に入るので、勝手に入ると驚く仕組みを作るとか、お化け屋敷のような仕組みを作って、親がそれを怒るのが楽しかったのです。

工業デザインをやっていたときにも不思議なものがテーブルで動いていて、「何で動いているの?」と聞かれて「よく分からないけどずっと動いているんですよ」というものを作りたかったんです。

 ゲームを作り始めてから、あなたにとって最大のライバルは何ですかと聞かれたのですが、そのときには「ルービックキューブだよ」と答えました。工業生産品をやっている自分にとっては、憧れの傑作のデザインだと。

 そういうものをやりたいと思っている中でゲームと出会えたのは幸運でした。ゲームセンターでお金を入れるのは負けて悔しいからだと思うのです。射幸心ではなくて、悔しいからお金を入れる。そのビジネスに使われているのがゲーム。それに出会ったのは自分にとって幸運で、それをどんどん広げていくうちに、そこでお金をもらうのではなくて、なぜもう一回やりたいと思うのかということに純粋に興味が移り、そこに、ただ遊んでいても面白くないですが、その中でその世界に自分が入っているような感じになってきたらどうだろうかという箱庭ゲームのような。

 箱庭を作ると、今度は箱庭の世界ならお話があった方が面白いだろうということで周辺のお話を作りました。でも僕たちは語り部ではないので、お客さんが遊んでいるうちに、その人の中に物語が生まれていくという構造を作るにはどうしたらいいのかということをどんどん考えるようになり、結局自分が出したものをどう受け取ってもらえるかという仕事が続けられているので幸運だったと。ゲーム会社として任天堂に就職したわけではなく、おもちゃ会社として何を出すか分からない不思議な会社として就職したわけです。とてもラッキーでした。

【スーパーマリオワールド】

(C) Nintendo.

マップからステージを選べるようになり、タイトル通りマリオの世界が生まれた作品(1990年11月21日 スーパーファミコン)(C) Nintendo.

――50年ゲームに向き合われてきたとおもいますが、今回の受賞についてはご自身にとって通過点なのか、どういうポイントとして受け止めていらっしゃいますか。

宮本氏: 今はまだいくつかの仕事をしているので、引き続きそれを続けていきたいと思います。この年齢になると、いつ仕事ができなくなるかという覚悟も持ちながら、楽しくやりたいことを進めようと思っていますし、さっきも言いましたが、作り手も遊び手と同じように遊びながら作っていますので、それを続けていけたら楽しいなと思います。

――開発しているとき、発売された後でもいいんですが、どのようなときに喜びを感じられるのか教えてください。

宮本氏: 難しいですね。やはり作ったものを遊んでいる人を見ているのが一番の楽しみだとしか言いようがありません。自分のメッセージを何か伝えたくて、それがどのように伝わるのかということはあまり考えないのです。こういうことをしたら楽しいと思うんではないかとか、こういうことをしたら興味を持ってもらえるんではないかということを目指して作り続けて、それの触り心地というか、使ってくれる人が心地よく思ってくれたらもうそれで満足です。そこから先に、それをその人がどんなふうに解釈して、どういうふうに語るかはもう僕の領域ではないと思っています。

――今回文化勲章を受章されたのですが、世界中を夢中にする文化を創り出されているわけですが、それが京都という関西発で生み出されたことについてどのように受け止めていらっしゃいますか。

宮本氏: 先ほどもお話ししましたですが、京都で作ってよかったなと。自分のセンスでものを作れたのがよかったなということが京都の魅力で。基本的にはどこで作っても同じかなと思っているんですよ。誰が作っているか分からないものにはなりたくないなと思うだけで。

 またわけの分からない話になるんですが、昔、ゲームがトレードショーとかに出ていったりするときに、コンピューターがあって、家電があって、ゲームは家電の方だったのです。コンピューターはもっと上位の方。それが徐々にゲームがコンピューターのショーと一緒に扱われるようになった。コンピューターと一緒にいた頃は、IBMを中心としたコンピューターの世界の人たちが上位にあって、ゲームが下位にあるような時期が非常にあったんです。ところが、20年経つと、そのコンピューターの世界にいる人たちも、ゲームを遊んで育っている世代に変わってくるんですね。2世代目になっていくと。

 今、3世代目になってくると、そういう人たちが、そのコンピューター関係の幹部に顔を連ねていて。そうすると上位・下位という感覚がなくなってみんな、デジタルを知っている面白い仲間たち、という感じになって、本当にそういう壁がなくなったんです。

 これは地域とかそういうことではなく、道具としてデジタルを触っている人たちがどんどん広がって、どの地域も関係なく一つのデジタルを扱っている仲間が広がっていた感じがあって、本当に地域性のないものなのです。

 あまり地域性は関係ないので、どこから発信するのかとか、そういうことは全く思わないです。どちらかというと、京都の人はマイペースで、その人がいるから面白い。だから僕は、京都に住んで京都の人というのをきちんと守り続ける必要があるので、頑張ります。

――宮本さんはマリオの父と呼ばれておられますが、マリオが生み出されたときの裏話があれば教えてください。

宮本氏: 昔、「パックマン」というゲームがありました。「パックマン」がどういうゲームかというと、点々を全部食べていって、画面の中の何かを刈り取っていって、全部なくなったらOK。これは誰が見てもわかります。

 「テトリス」というゲームがあって、これは上からパラパラと降ってくるものをはめていく。横に一列並んだら消えます。これは誰が見てもわかります。

 僕は「ドンキーコング」を作っていたのですが、「ドンキーコング」には少し難しいところがあって。この人がA地点からB地点まで行きますというのは誰が見ても分かる感じがしない。わかりにくい。全部をクリアしたらきれいになります。全部を満たしたらOKです、というのがないので結構苦労しました。ここからここへ行くんだよということをわからせるためにゴリラが女の子をさらって逃げていって、それを自分が追いかけていくという感じで。

【ドンキーコング】

(C) Nintendo.

マリオは「ドンキーコング」のプレイヤーキャラとして誕生した(1983年7月15日 ファミリーコンピュータ)(C) Nintendo.

 そのときに画面がどんどんスクロールして、もっともっと遠くまでいけたらいいのになと思っていたのですが、その頃の技術ではスクロールしなくて、そういうことも含めて、ジャンプするマリオというキャラクターがずっと延々と走っていけるゲームが作れたらいいなというのを思っていたのがまず下地です。

 少しずつ足していくうちに、何かキノコを食べると大きくなって、一回やられても大丈夫という仕組みを入れたり、いろいろ足していくうちにスーパーマリオになっていったんです。そのときに「陸海空」という言い方をしていたのですが、人が走っていくんだから地上も走るし、海も泳ぐし、空も飛ぶし、やりたいことを全部アクションでできたらどうかということを考えるようになって、多分それが発明だったのでしょうね。

 みんなやってみたかったんですよ。横に走りながら空を飛んだり、泳いだり。一人で電車に乗っているとき、指を出して人が走った、川に落ちたと遊びでやったりするではないですか。そういうみんなが持っている共通体験をここでやれる。やった結果、何となくキノコ王国のような世界観がそこに残る。ということに気が付いたことですね。

 「スーパーマリオブラザーズ」の一番大きな発明、というか裏話は、スーパーマリオはゴールまで走っていってクッパと戦わないんです。普通お話を考えたら、ずっと進んでいって最後にゴールにボスがいたら戦わないと駄目ではないですか。戦うのが大変で、このままじゃ戦いは作れないなと思ったときに、ずっと右に走っていくゲームだから、一番右に行ったら勝ちでどうだろうと思ったのです。戦わずに上を飛び越したらいいのではないか。実はスーパーマリオは戦わずにクッパを通り過ぎただけなのです。後はクッパが落ちてくれる。それに気が付いたときはとても嬉しかったです。どうしようかととても悩んでいたのですが、これで解決するではないかと思ってやってみたら、意外と面白かった。なので、2作目3作目を作っていったら徐々にもうちょっとクッパと戦おうということで、クッパと戦うようになりました。

【スーパーマリオブラザーズ】

(C) Nintendo.

画面じゅうを動き回るマリオの躍動感は、当時としては感動的に新しかった(1985年9月13日発売 ファミリーコンピュータ)(C) Nintendo.

【「スーパーマリオブラザーズ」】

(C) Nintendo.

――宮本さんがこれまでどういうことを一番大事にしてきて、どういうことを心がけてゲーム作りをして来たのかということと、今の若いクリエイターにどういう心構えを伝えたいのかを教えてください。

宮本氏: やはり一番大事にしてきたのは、遊びながら、遊びでも頭を使って考えていることです。インタラクティブの面白さは、使っている人が次にこうしたらどうなるのかと思うことだと思うのです。それが試してみた結果どういう答えが返ってくるかということでそこにどういう答えを返すかということが作家性で、ネガティブな人もいればポジティブな人もいる。意地悪な人もいればサービス精神旺盛な人もいる。そこでのやり取りを僕はとても大事にしています。そこが心地よいかどうか、それを繰り返しているうちに、その人の中に思い入れが出てきてそれが自由に広がっていくからあとは好きなものを展開していけばあとは勝手に消化してもらえるみたいな感じで作れるのが理想かなと思っています。

 いつも言うのは、自分が何かのゲームの大ファンで、それが面白かったけれど、それをこうしたらもっと面白くなるというスタートはやめた方がいいと言っています。その非常におもしろかったというところまでは自分が作らないといけない。何かをベースに改良するよりは、大元にある「こんなことをしてみたら面白いのではないだろうか」という発想を一生懸命作り上げていくほうがきっと楽しい。仕事のやりがいがある気がするんです。

――2019年に文化功労者に選ばれましてそのときもゲーム業界では初めての受賞だったと思います。今回さらに文化勲章を受賞なさったということで、宮本さんが歩んでこられた50年はゲームが文化として認められて成熟してきた50年間だったのではないかと、今回の受賞はその証でもあるかなというふうに思っております。この50年間のゲームの文化としての広がり成熟ぶりというのを振り返ってどのようにお感じになりますか。

宮本氏: 難しいですね。今でも考えるときには、こんなことが日々できたら楽しいかなというところから考えるんです。だからみんなが、次にこういうものがあったら、こういうことができたら楽しいなということを考えると、それは昔だったら映画を作るとかマンガを描くとか、小説を書くとか、そこにゲームを作るだけではなくてインタラクティブなシステムを作るという選択肢が増えた。要するにメディアなのかなという言い方をするんですね。ゲームというものが、ゲーム機というものからメディアになってきたなという言い方をしていて。メディアをやるなら、映画を作るのも自分たちのメディアとして扱ったらいいし、その中からメディア自体が混ざって新しいものが出てくるかもしれないと考えて、映画を作っていきたいと思っております。文化になったというより、当たり前の存在になったということかもしれません。

――それに対する宮本さんご自身のお気持ちはどうですか。

宮本氏: 選択肢が増えていいなと思います。僕らの頃にもっと選択肢が広かったら良かったのかなと思うし、そんなにあったら選びきれなかったかもしれないなとも思います。

 またニンテンドーDSの頃に戻りますですが、みんながスマホでメールを送っている姿を電車で見て、それが一番楽しそうなのを見て、悔しかったです。ゲームをしているよりメールを打っている方が楽しそうで、常にああいうものになりたいと思っています。ゲームの方がインタラクティブなので、そういうところの良さを活かしていけたら本当に良いなと思っています。いまはモバイルで表を歩いていてもコンピューターでやれるようなことができるから、どんな面白いことができるかなと。

――冒頭の発言で、ご自身一人で作ってきたわけではないというお話をいただきましたけれども、任天堂で過ごされた50年近くの歳月に、どういった方に影響を受けたのか、こういったお話が印象に残っていると言ったエピソードがあれば教えてください。

宮本氏: 任天堂の中では、やはり山内さんと横井さんは欠かせない。横井さんは本当に、目の前にあるものをどうしたら面白くなるのかと考える人で、そこからとても学びがあったと思います。山内さんは、僕が「独創」というものを積極的に言うようになったのは山内さんの影響だと思います。「おまえらはけんかが弱いんだから、喧嘩をするよりは独自のことをやれ」と。

会場には「独創」の文字が掲げられていた

 任天堂の外で言うと、糸井重里さんに影響を受けています。目の前にあるものをどう捉えて、どう考えるかということ。流行の最先端にいるような人が、自分のことをこつこつやっている姿を見て、お話を聞いてとても学ばせてもらいました。

 もともとは漫画家を目指していたので、やはり赤塚不二夫さんや手塚治虫さんからはいろいろなことを学びました。仕事をするようになってから、漫画というメディアを生み出してきた人たちが晩年にそれをどんなふうに変えていっているか。やはり最初に作った人が変えないと、なかなか後から入った人が変えるには勇気がいるので。そういう意味では僕もゲームを作り始めた世代なので、僕らが積極的に変えていかなければいけないと思っています。

来源:Game Watch · game.watch.impress.co.jp